FAZER LOGINその日の朝。玲子は、鏡の中に映る自分の姿をじっと見つめていた。丁寧に整えられた髪。隙のない化粧。そして、口元に浮かぶ満足げな笑み。今日という日を、どれほど待ち望んでいたことだろう。壮真と美玲の離婚後の話し合い。そして、あの雪乃が産んだ『康太』についての話し合い。今日は、その二つの問題に決着がつく日だった。壮真と美玲の離婚については、美玲が何かごねたりせずに、あっさりと済んだと聞いている。玲子は、その話を聞いたとき、思わず笑みを浮かべたものだった。あれほどプライドが高く、神崎家の妻という立場に執着していた女が、意外にも簡単に身を引いたのだ。―――結局、壮真に愛されていないことを認めざるを得なかったのね。そう考えると、今まで美玲に見下され、冷たい視線を向けられてきた日々が、少しだけ報われたような気がした。次は、財産分与についてだ。夫婦共有財産は二分の一ずつ。玲子は、その程度の知識なら持ち合わせていた。もちろん、実際には財産の内容や形成された経緯によって判断されることくらい、詳しく知らない玲子にも想像はつく。だが、もともと財閥出身者である二人のことだ。自分には計り知れないほどの金額が動くに違いない。それでも、壮真が何もかもを失くすことはないだろう。神崎財閥の人間であり、神崎グローバルトレーディングの社長でもある壮真だ。多少の財産を美玲に渡したところで、彼の生活が困窮するはずもない。それならば、自分の今後の生活だって心配する必要はない。壮真が自分を見捨てることなど、あり得ないのだから。玲子はそう考え、鏡の中の自分にもう一度微笑みかけた。康太のことについても、気にする必要はないと思っていた。美玲が、どういった意図で康太を養子にしたのかは知らない。けれど、壮真と離婚したあとに養子にしていることを考えれば、単に壮真と血のつながりのある子供に同情しただけなのだろう。まさか、あの女が本気で康太を神崎家の後継者にしようとしているわけではあるまい。―――余計なことを考える必要なんてないわ。玲子は、そう自分に言い聞かせた。何より、今日こそは美玲に一矢報いるつもりだった。今まで何度、あの女の冷たい視線にさらされ、悔しい思いをしてきたことか。正妻という立場を盾にして、玲子を見下してきた美玲。けれど、もうその立場は失われる。これからは自
「まずは、壮真と玲子を呼んで話をするわ」美玲の一言で、話し合いの場は終わった。その言葉には、もう過去にこだわって立ち止まるつもりはないという、強い決意が込められていた。壮真との離婚を決め、康太を養子に迎えた美玲にとって、これから先に考えるべきなのは、自分たちと康太の未来だった。そして、神崎財閥の混乱をこのまま放置するわけにもいかない。玲子が壮真をどのように動かそうとしているのか。それを見極めたうえで、必要な決着をつけるつもりだった。その後、正隆と玲司、和真、そして叶翔は、正隆の書斎へと集まっていた。重厚な書棚に囲まれた室内には、張り詰めた空気が漂っていた。正隆の机の上には、神崎グループの株価変動を示す資料が広げられている。数字を追う正隆の表情は険しく、時折、資料をめくる手が止まった。神崎財閥の没落は、もはや壮真個人の問題ではない。取引先や従業員、関連企業、そして和真自身の立場にも影響を及ぼす重大な事態だった。正隆はしばらく資料を見つめていたが、やがて顔を上げ、和真へ視線を向けた。「和真、鷹宮の財力を使っても、神崎を救うよう動くんだ。このまま神崎が没落すれば、お前にとっても良くないだろう?」正隆の声には、鷹宮家の当主としての判断と、和真を家族として案じる気持ちの両方が込められていた。和真は今、鷹宮家の後継者として、その財力と責任を引き受けようとしている。神崎が崩壊すれば、和真の実家が失われるだけではない。鷹宮との関係や、財閥全体の信用にも影響しかねなかった。だからこそ、救済する必要がある。しかし、資金を投入するだけで神崎が立ち直るわけではない。これまでの経営を続けたままでは、いずれ同じ問題が繰り返される可能性がある。和真は正隆を正面から見つめ、静かに頷いた。「はい。お義父さんのお許しがあるなら、鷹宮の財力を使わせていただきます。ただし―――」そこで和真は言葉を切った。一瞬、室内の空気がさらに重くなったように感じられた。和真にとって、これから口にする言葉は、簡単に決められるものではなかった。壮真は、血のつながった実の兄だ。幼い頃から同じ家で育ち、同じ父親のもとで生きてきた。どれほど関係がこじれようとも、兄弟であるという事実まで消えるわけではない。それでも、今の神崎を救うためには、避けて通れない決断があった。和真は玲司の顔を
週末の昼下がり。鷹宮邸の広々としたリビングには、穏やかな日差しが差し込み、室内を柔らかな光が包んでいた。この日、鷹宮邸には、それぞれの面々が集まっていた。大きなテーブルを前に座っているのは、鷹宮正隆、和真、そして心春。その隣には、九条叶翔と櫻羅が並んでいる。そして反対側には、九条玲司と綾乃、鳳条美玲と神山雪乃、さらに康太の姿があった。一堂に会した顔ぶれは、それぞれに異なる事情や過去を抱えている。けれど、今この場に集まっているのは、誰かを責めたり、過去の過ちを蒸し返したりするためではない。これから先、どうすれば皆が前を向いて歩いていけるのか。そのための話し合いをするためだった。全員が席に着いたことを確認すると、和真は立ち上がり、ゆっくりと口を開いた。「先日の当主就任パーティーへはご参加いただき、ありがとうございました。少しトラブルはありましたが、無事終えることができました。本当にありがとうございます」和真は一人ひとりの顔を見ながら、丁寧に頭を下げた。鷹宮家の当主を引き継ぐということは、単に肩書が変わるというだけではない。これからは自分の判断が、多くの人々の生活や財閥の未来を左右することになる。その責任の重さを、和真は以前にも増して強く感じていた。そして、今回の就任を支えてくれた人々への感謝も、決して忘れてはいなかった。すると、隣に座っていた心春が静かに立ち上がった。彼女はテーブルを囲む皆の顔を見渡すと、背筋を伸ばし、大きく頭を下げた。「祖父と主人のために、みなさんありがとうございました」その姿を見て、正隆は思わず目を細めた。綾乃もまた、驚いたように娘を見つめていた。これまでの心春は、玲司と綾乃の娘であり、正隆にとっては大切な孫娘だった。周囲から守られ、愛情を注がれる立場にいることが多かった。もちろん、心春にも彼女なりの思いや責任感はあった。しかし、今、目の前に立つ孫娘は、ただ誰かに守られるだけの女性ではなかった。夫を支える立場として、自分の言葉で感謝を伝え、周囲への礼を尽くしている。その成長を目の当たりにして、正隆の胸には、嬉しさと誇らしさが込み上げた。――心春も、もう一人の大人として、自分の立場を理解し始めたのだな。正隆は微笑みながら、大きく頷いた。そして、前に座る綾乃へと顔を向けた。「綾乃。やはり、肩書というものは
玲子の豪華な高級マンションに着くと、壮真はようやく深く息を吐いた。大きな窓の向こうには、夜の街を彩る無数の明かりが広がっている。上質な家具に囲まれた室内には、外の喧騒など届かない。ここだけは、神崎財閥を襲っている危機も、世間から浴びせられる非難も、すべて別世界の出来事のように思えた。この何日もの間、壮真の心には、張り詰めた緊張と不安が澱のように積もり続けていた。会社の株価は暴落し、経営責任を問う声が日に日に強まっている。父の正蔵は脳出血で倒れ、いまだに意識が戻らない。今まで絶対的な存在として君臨していた父が、突然、何も語れない人になってしまったのだ。壮真にとって、どれも想定外の事態だった。いや、本当は、会社の経営が悪化していることにも、父の判断に頼りきってきたことにも、薄々気づいていたのかもしれない。しかし、それを正面から認めることはできなかった。認めてしまえば、自分が神崎財閥を率いるにふさわしい人間ではないと、認めることになるからだ。だからこそ、壮真は現実から目を背け、誰かに答えを求めていた。そして今、その相手は玲子だった。壮真は、玲子の胸に顔を埋め、久しぶりに甘えるように身を寄せていた。彼女の温もりに包まれていると、頭の中を埋め尽くしていた不安が、少しずつ遠のいていくような気がした。今の自分を責めず、必要としてくれる女性がいる。それだけで、壮真は救われた気になっていた。本来なら、神崎財閥の次期当主として、どれほど苦しい状況でも自ら判断し、事態を収拾しなければならない。だが、今の壮真には、そこまでの気力も覚悟もなかった。一刻も早く、この重苦しい現実から逃げ出したい。玲子は、そんな壮真にとって、まさに女神のような存在だった。ひとしきり愛し合った後、壮真は玲子の横に倒れ込むようにして横になった。全身から力が抜け、ようやく心が落ち着いてきたところで、ふと思い出したことがあった。玲子が神崎邸で口にした、あの言葉だ。――いい手が思いついちゃったから。あのときの玲子は、自信に満ちた笑みを浮かべていた。今の神崎を救う方法が本当にあるのなら、どれほど心強いことだろう。壮真は期待を込めて、玲子の顔を見た。「さっき言っていた、思いついたいい手ってのを教えてくれよ」玲子は、待っていましたとばかりにクスッと笑った。そして壮真の方へ体を寄せると
電話を受けた玲子は、スマートフォンを耳から離すと、満足そうに口元を緩めた。電話の向こうから聞こえてきた壮真の声は、明らかに焦りと不安に満ちていた。神崎財閥の株価は暴落し、世間からは経営責任を問われ、父の正蔵は病院で意識不明のまま。そして、自分自身も何をどうすればいいのか、わからなくなっているのだろう。そんな壮真が、最後に頼ったのは自分だった。「ふふっ……やっぱり私がいなきゃ、何にもできないんだから!」玲子は得意げに呟いた。これまで壮真は、神崎家の長男という立場に守られ、父親の意向に従うことで地位を保ってきた。だが、その後ろ盾が失われかけている今、彼には自分の判断で事態を切り抜ける力がない。玲子は、そんな壮真の弱さを誰よりもよく知っていた。そして、その弱さこそが、自分の存在価値を高めてくれるのだと思っていた。壮真が自分を必要とする限り、玲子は彼の傍にいられる。いつか美玲に代わって神崎家の正妻の座に収まることも、決して夢ではない。そう考えると、玲子の胸には、抑えきれない期待が膨らんだ。彼女は鏡の前に立ち、髪の乱れを整えた。高級ブランドの服に身を包み、アクセサリーの位置まで念入りに確認する。今の神崎家がどれほど窮地に陥っていようと、自分までみすぼらしく振る舞う必要はない。むしろ、こんなときだからこそ、自分が壮真を支える女であることを世間に見せつけてやりたかった。神崎邸の周辺には、ゴシップ記者が張り込んでいるはずだった。玲子はそれを十分に承知していた。記者たちが自分の姿を見つけ、カメラを向けてくることも予想していた。だからこそ、タクシーを降りるときも、少しも慌てなかった。背筋を伸ばし、堂々とした足取りで門をくぐる。カメラのレンズがどこかから自分を狙っていると考えると、むしろ気分が高揚した。――さあ、しっかり撮りなさい。私が神崎家に出入りする女だって、世間に教えてあげるわ。離婚した美玲が神崎邸を出たとはいえ、玲子が正式に壮真の妻になったわけではない。そのことを使用人たちは当然知っていた。玲子が玄関を通っても、誰も恭しく頭を下げることはなかった。挨拶こそするものの、そこには特別な敬意も、彼女を神崎家の人間として扱うような態度も見られない。玲子の眉が、ぴくりと動いた。自分は壮真にとって、これほど大切な存在だというのに。どうしてこの者たちは
九条ホールディングス最上階の会長室では、玲司と和真、そして叶翔が難しい顔でニュース記事を見ていた。テーブルの上には、神崎財閥と神崎グループに関する報道が次々と表示されたタブレットが並んでいた。画面を埋め尽くすのは、正蔵の意識不明、壮真の経営手腕への批判、そして神崎グループの株価暴落を伝える記事ばかりだった。かつて財界で確固たる地位を築いていた神崎財閥が、わずかな期間でここまで追い詰められるとは、誰もが予想していなかっただろう。しかし、玲司にとっては、単なる不祥事による株価の下落ではなかった。長年にわたって積み重ねられてきた経営上の問題が、壮真の不祥事をきっかけに一気に表面化したのだ。表向きの信用が崩れれば、隠されていた問題も次々と明るみに出る。そうなれば、神崎財閥はもはや、これまでのやり方を維持できなくなる。和真に至っては、いくら作戦だとわかっていても、父の正蔵が意識不明の中、神崎財閥がこんな事態に陥っていると知れば、父はきっと激怒するだろうと考えていた。――もしも耳が聞こえていれば、今すぐにでも目を覚ますのではないか。そんなことさえ考えてしまう。幼い頃から、和真にとって正蔵は逆らうことのできない絶対的な存在だった。どれほど理不尽なことを言われても、父の言葉には従わなければならない。そうやって長い年月を過ごしてきた。その父が、今は何も言わず、病院のベッドで眠り続けている。父の意識が戻ることを願う気持ちは、確かにあった。だが、目を覚ました正蔵が今回の事態を知れば、どれほど怒り狂うだろうか。その姿を想像すると、和真の胸には複雑な感情が渦巻いた。それでも、今は感情に流されている場合ではない。神崎財閥の未来を左右する重大な局面なのだ。手にしたタブレットをテーブルに置き、玲司が顔を上げる。その動きに合わせるように、和真も叶翔もタブレットを置き、顔を上げた。玲司は二人を見渡すと、落ち着いた声で説明を始めた。「この騒動の前、神崎財閥及び神崎グループ全体の時価総額が二兆円。発行済み株式が四億株。その際の株価が―――」「五千円です」玲司の言葉に続き、和真が答えた。和真は、すでに神崎グループの財務状況や株価の推移について、必要な情報を確認していた。数字を口にする声には落ち着きがあったが、その胸中は決して穏やかではない。自分がこれから引き受けよう







